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エリザベート|「ヨーロッパ宮廷一の美貌」といわれたハプスブルグ家最後のオーストリア皇后

投稿日:2018年1月31日 更新日:

皇帝にひとめ惚れされオーストリア皇后に

エリザベート・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ(Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach、1837-1898)、「シシィ」の愛称で知られる后妃は、バイエルン王国(現ドイツ)に生まれ育ちます。

出典: Wikipedia (エリザベート、1867年)

当時のヨーロッパ情勢はというと、フランス革命後(1789年)にヨーロッパ中を巻き込んだナポレオン戦争(1803-1815年)で神聖ローマ帝国は解体。ただし、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の消滅後もオーストリア=ハンガリー帝国を統治し続けていました。

ナポレオンの失脚後のヨーロッパの在り方を決めたウィーン会議(1815年)により、もともと神聖ローマ帝国を構成していたドイツの35領邦と4帝国自由都市が合わさって「ドイツ連邦」として成立し、このうちひとつがエリザベートの出身であるバイエルン王国となります。

エリザベートの父親であったマクシミリアン公爵は、バイエルン王家(ヴィッテルスバッハ家)の中でも傍系であったこともあり、そうとうな自由人であったようで、エリザベートも自由気ままに伸び伸びと生きていました。幼いころには、父親とともに身分を隠して街に出かけ、チター奏者に仮装した父の傍でチップを貰う少女役をになったり、という逸話ものこっています(エリザベートは、このチップを「私が唯一自ら稼いだお金」と言って生涯、大切に保管していたそうです)。

出典: Wikipedia (マクシミリアン公爵)

その自由気ままな生活に変化が訪れたのは、姉であるヘレーネのお見合いが行われた時でした。エリザベートの姉の見合い相手としてやってきた、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I、1830-1916)が見初めた相手は、姉ではなく、付き添いでやってきた妹のエリザベートだったのです。

ヨーゼフ1世は、顔合わせの際には、姉に見向きもせずエリザベートに熱い視線を注ぎ、その後の夜会でもエリザベートとばかり言葉を交わしていたそうで、これまで母であるゾフィーの言葉に逆らったことのないヨーゼフ1世でしたが、この時ばかりは、自分の意見を押し通し、ヨーゼフ1世が23歳、エリザベートは16歳の若さでオーストリア=ハンガリー帝国に嫁ぐことになります。

出典:Wikipedia (新婚当時のフランツ・ヨーゼフ1世とエリザベート)

しかし、そこからが大変です。

姑ゾフィーは、そもそもの結婚の経緯からエリザベートに対してあまり良い印象をもっておらず、夫であるヨーゼフ1世も、新婚早々、クリミア戦争(1853-1856年、ロシアとオスマン帝国間の戦争)が激化したため、早朝から深夜まで会議に追われ、エリザベートを思いやる余裕がありませんでした。

出典: Wikipedia (ゾフィー大公妃、1832年)

そして何より、今まで自由気ままに生きてきたエリザベートにとって、ウィーン流の宮廷文化の中で、ハプスブルク家の皇后としてふさわしい立ち振る舞いを求められる生活は苦痛そのもの。

実際、エリザベートに課されたプリンセス修行は、かなりなハードスケジュールだったようで、夫のフランツですら可哀そうだと思ったほどだったとか。しかし、このプリンセス修行の中でエリザベートが興味を持ったこともありました。

それはハンガリーについてです。エリザベートの家庭教師をしていたマイラット伯爵がマジャール人(モンゴル系遊牧民の流れを汲むハンガリーの主要民族。マジャールは、モンゴルが訛ったとも)だったということもあり、彼の教えるハンガリーに興味を持ったのです。

そして、この教育が後のエリザベート后妃のハンガリー熱へと繋がっていくわけなんですね。勉強嫌いでもハンガリー語だけは短期間のうちにマスターするなど、エリザベートはハンガリーにのめり込んでいきます。

 

美への執着と過剰な浪費

美しいことがとにかく自慢だったエリザベートですが、美しいのは顔だけではありませんでした。172cmほどある身長で体重はわずか45kg、ウェストはなんと51センチ、というモデル体型。そして、くるぶしまで届く艶やかな髪の毛も大変美しいものでした。

出典: Wikipedia (エリザベート)

エリザベートは美しさのためには何でもしました。20代からはベジタリアンとなり、体重計に乗るのは1日3回。断食をはじめとする過酷なダイエット。寝る時には背中がまっすぐになるように枕は使わず。そして、自慢のロングヘアを維持するためには、30個の黄身と極上のコニャックをブレンドした特別シャンプーを用いていたそうです。手入れには3時間も掛けて!

さらに、宮廷に籠っていると、美の大敵、ストレスが溜まるという理由から、ドイツ、フランス、イタリア、イギリス、ギリシア、地中海の島々、ヨーロッパ中ありとあらゆる保養地へ頻繁に旅行もしていました。美容にも旅行にも、とにかくお金が掛かります。そのため、エリザベートは超浪費家としても有名になってしまったのです。

一方で、夫のヨーゼフ1世はというと、睡眠時間を3時間に削って朝から晩まで、兎に角、国のために勤勉に働き、「オーストリアの国父」とまで言われた人物。くそして、「超」が付くほどの倹約家。着られる服は糸がほつれても着ていましたし、靴は穴があくまで履いていました。皇帝としての品位が問われるようなみすぼらしい恰好をしていたこともあるようです。ヨーゼフ1世とエリザベートは、正反対の性格を持つ夫婦だったのです。

しかし、ヨーゼフ1世が倹約家になったのには、妻エリザベートの存在があったからだとも言われています。もともとから倹約家タイプの人間だったフランツ・ヨーゼフ1世ですが、妻エリザベートが不自由しないために、より倹約に務めていたそうなのです。フランツ・ヨーゼフ1世のエリザベートへの愛を感じることが出来るエピソードですね。

 

不幸続きの晩年とあっけない最期

美への執着や過剰な浪費でもわかるように、エリザベートにはやや突飛なところもあったようで、思想的にも、当時、急進的な自由主義や社会批判で危険視されていたユダヤ詩人のハインリヒ・ハイネを「精神上の愛人」として慕い、皇后でありながら君主制・貴族制には懐疑的で、これにはヨーゼフ1世も頭を悩ませたようです。

出典: Wikipedia (ハインリッヒ・ハイネ、1831年)

また、あれだけの美貌でありながら、美醜コンプレックスもすごかったようで、姑ゾフィーに歯が黄色く、歯並びが悪いと指摘されてからは、人と話をするときは扇で口元を隠し、宮廷内ではなるべく人と会わないよう、庭に出るのに自分専用のらせん階段を作らせたり、していました。

こんな状態で、エリザベートはそもそも宮廷に居つかず、いつも旅から旅の生活を繰り返していたため、さすがに夫であるヨーゼフ1世に申し訳ないと思ったのか、人気舞台女優のカタリーナ・シュラットを夫に引き合わせ、不倫関係を認めていたとも言われています。

出典: Wikipedia (カタリーナ・シュラット)

そんな、エリザベートの晩年には、さらにいくつもの悲劇が襲います。

ひとつは、同じくヴィッテルスバッハ家出身でバイエルン国王となっていたルードヴィヒ2世(Ludwig II.、1845-1886)の謎の水死。宮廷風のしきたりや束縛を嫌い、音楽家ワーグナーのパトロンとなったり、ディズニーランドのシンデレラ城のモデルともなったノイシュヴァンシュタイン城を建設するなど、お互いに心を許していた友人であったと言われています。

出典: Wikipedia (ルードヴィヒ2世、1874年)

出典: depositphotos.com (ノイシュヴァンシュタイン城)

もうひとつは、息子であり、皇太子でもあったルドルフ(Rudolf Franz Karl Joseph von Habsburg-Lothringen、1858-1889)の自殺。彼も、姑ゾフィーによるスパルタ教育や宮廷生活に馴染めず、長じては、王族や貴族制度に対して批判的な思想をもったため、政治的な要職から外され、放蕩三昧の生活をおくった末に30歳の若さで拳銃自殺を遂げました。

出典: Wikipedia (ルドルフ皇太子、1887年)

そして、1898年、エリザベート自身の身にも悲劇が訪れます。スイスのレマン湖湖畔へ保養で出かけたエリザベートは、無政府主義者ルイジ・ルケーニに刺され、あっけなくその人生の幕を閉じました。犯人は、母親に捨てられ孤児院で貧困の中に育つことで、王侯貴族を憎むようになり、「王族であればだれでも良かった」と供述していたそうです。

出典: Wikipedia (逮捕されたルイジ・ルケーニ)

エリザベートの美貌と、そして、その見た目とは裏腹に決して幸せとは言えなかった波乱万丈の人生は、現代にいたるまで、本、映画、ミュージカルとなって、多くのひとを惹き付けて止みません。

 

美しいものを愛したエリザベート

エリザベートと言えば、「悲劇の美女」、「美貌の后妃」といった言葉が浮かんできます。実際に美しさに定評のあったエリザベートですが、自身の美しさだけではなく、様々な美に関心を持っていました。その関心は陶磁器にまで及びます。

世界中の様々な有名陶磁器を所有していましたが、やはりハプスブルク家伝来のアウガルテンを最も敬愛していたようです。マリア・テレジアが支援したウィーンの陶磁器ブランド、アウガルテン

ハプスブルク家の紋章を使うことを許可されたアウガルテンは、ハプスブルク家の陶磁器と言っても過言ではないでしょう。同じハプスブルク家出身のエリザベートは、マリア・テレジアの偉業を引き継ぎ、ハプスブルク家の代表としてアウガルテンの支援の推進役になります。

エリザベートは、オーストリア=ハンガリー帝国からアウガルテンに沢山の食器や陶磁器を発注し、実質的なオーナーとしてアウガルテンの支援に貢献しました。

ちなみに、アウガルテンのシリーズの中には「エリザベート」と呼ばれるものがあり、白地の陶器に金が彩られたシンプルなデザインが特徴のものです。これは、エリザベートが白地に金の装飾のコンビネーションを好んだことに由来しています。

出典: ウィーン磁器工房アウガルテン日本公式サイト(エリザベート)

ところで、夫のヨーゼフ1世も陶磁器には興味があったようです。1826年に誕生した磁器製作所ヘレンドの陶磁器をとても気に入り、1842年には皇室帝室御用達の磁器製作所に任命しています。1842年というと、エリザベートと結婚する3年も前のことなので、美的感覚が鋭かったと言われるエリザベートの影響を受けてのことだったとは考えにくく、おそらくヨーゼフ1世自身も美的感覚に優れた人だったのでしょう。

オーストリア=ハンガリー帝国に嫁入りしたエリザベートもヘレンドをとても気に入ります。ヘレンドの代表作とも言える「ウィーンの薔薇」は、アウガルテンの「オールドローズ」を彷彿とさせるものだったので、エリザベートは特にこのシリーズを気に入っていたと言われています。

出典: ヘレンド日本公式サイト(ウィーンの薔薇)

 

参考資料

「皇妃エリザベート:ハプスブルクの美神」カトリーヌ・クレマン(著)、田辺希久子(訳)、創元社(1997)

ウィーン磁器工房アウガルテン日本公式サイト

ヘレンド日本公式サイト

Wikipedia

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