はじめてでもわかりやすい!

ヨーロッパのブランド食器の世界

洋食器とゆかりの深い人物 17世紀

キャサリン・オブ・ブラガンザ|「陽気な王様」に嫁ぎ、イギリスにお茶をもたらしたポルトガル王女

投稿日:2017年11月23日 更新日:

国同士の利益をかけた政略結婚!チャールズ2世とキャサリン

ピューリタン革命によって共和制が成立したものの、王政の復活が望まれていたイギリス。そこで、フランスへ亡命していたにもかかわらず、元国王チャールズ1世の息子であることからイギリスに呼び戻されて即位したのが、チャールズ2世(1630-1685)です。

出典:Wikipedia(チャールズ2世)

チャールズ2世は、この王政復古によって混乱していた国の立て直しを図るため、また当時イギリスのライバルであったオランダに対抗しようと、このオランダを同じくライバル視していたポルトガルと結束を深めるべく、ポルトガル王女との結婚を画策します。

一方、ポルトガルでは、後に国王ジョアン4世となるブラガンサ公が、イギリスとの同盟関係をねらい、次女のキャサリン(ポルトガル名はカタリーナ・デ・ブラガンサ、1638-1705)を8才年上であるチャールズ2世に嫁がせようと考えていました。

出典:Wikipedia(「キャサリン・オブ・ブラガンザ」ピーター・レリー作)

この政略結婚はキャサリンが生まれた頃から持ち上がっていたといい、キャサリンが2歳になるかならないかの1640年には婚約していたとか!しかし、ピューリタン革命に伴う混乱によって延期となっていたのです。

その後20年の時がたち、1662年、ついに二人はポーツマスにて結婚しますが、この政略結婚により、ポルトガルより贈られたキャサリンの持参金は、イギリスに莫大な利益をもたらすことになります。

彼女の持参金は、イギリスがそれまで抱えていた負債の問題を解決できた、といわれるほどのものでしたが、特にポルトガルから譲渡されたインドのボンベイ(現在のムンバイ)、北アフリカのタンジールの領土によって、イギリスは海外進出の拠点を得ることとなります。

貿易ではオランダに遅れをとっていたイギリスでしたが、当時、貿易の先進国であったポルトガルを味方につけたことで、さらなる発展への足掛かりを得ることができたのです。

 

イギリスにお茶の文化をもたらしたポルトガル王女!

ポルトガルからはるばる嫁いできたキャサリンがもたらしたのは、有利な土地を含む持参金だけではありません!

今でこそイギリスの飲み物としてイメージの強い紅茶ですが、そんなお茶をイギリスに持ち込んだのはキャサリンでした。

当時、貿易の最先端にいたポルトガルならではといえる、貴重な贅沢品であったお茶や砂糖、スパイスといった品々を、なんと数隻もの船に満載してお輿入れしたのです。

当時、お茶は中国や日本で薬用として飲まれ、ヨーロッパでも「万病に効く東洋の神秘薬」とされていましたが、ポルトガルではすでに喫茶の習慣があったようで、キャサリンは異国の地でも健康を守るためたくさんのお茶をイギリスに持ち込みました。

さらに、キャサリンは宮廷で、贅沢品であるお茶を毎日のように飲み、砂糖を入れて味わうことを始めます。この頃、キャサリンが飲んでいたのは緑茶でしたが、それまで薬用として飲まれてきたお茶に、甘い砂糖を入れることによって嗜好品として楽しむ飲み方が加わると、これが宮廷で大流行!

また、この時代のヨーロッパではサトウキビが栽培できなかったため、砂糖も大変貴重な品でした。ポルトガルは領土であるブラジルでサトウキビの生産ができたという背景もあって、他国より手に入れやすかったかったようですが、イギリスでは砂糖は輸入に頼るほかない貴重品であり、当初は持参金には銀を希望していたというチャールズ2世も、砂糖を受け取ることにしたという逸話が残るほどでした。

キャサリンは、そんな貴重な砂糖を、これまた万病に効くと言われた高価なお茶に入れて飲み、毎日客人に振る舞っていたわけですから、これは二重の意味で贅沢な習慣だったのです。

こうして、イギリスにお茶を持ち込んだのみならず、お茶の文化が花開くきっかけをももたらしたキャサリンは、「ザ・ファースト・ティー・ドリンキング・クイーン」とも呼ばれることになります。

ちなみに、インド貿易の拠点を得たイギリスでは、東南アジア経由でお茶を輸入することができるようになり、1664年にはイギリス東インド会社の船が緑茶を王室に献上し、これ以降お茶は献上品の一つとなりました。

出典:Wikipedia(「イギリス東インド会社」Thomas Malton作)

キャサリン本人が持ち込んだお茶だけでなく、彼女の持参金によって贈られた土地もまた、イギリスのお茶文化の広がりに貢献していたというわけなのです。

 

"陽気な王様"との結婚は苦難の連続…

「メリー・モナーク(陽気な王様)」と呼ばれたチャールズ2世は、大変遊び好き・女好きで知られる人物であり、わかっているだけでも生涯10人以上の愛人を持ち、14人もの庶子をもうけたというほど。

出典:Wikipedia(チャールズ2世の愛人のひとり、バーバラ・パーマー)

一方、結婚前にチャールズ2世は堅実な人物だと聞かされていたというキャサリンは、敬虔なカトリック教徒であり、内気で生真面目なタイプでしたから、そんなチャールズ2世を前に大変なショックを受けることとなります。

チャールズ2世は、美人であったキャサリンを一目で気に入ったといいい、生涯大切にするものの、愛人たちやその子どもたちにも気前よく屋敷や爵位を与え、愛人と食事を共にしたり、キャサリンの女官まで務めさせる始末…中にはわがままな愛人が勝手に女官となってしまうこともあったようですが、いずれにせよキャサリンにとっては、入れ替わり立ち代わり現れる愛人たちと毎日顔を合わせるつらい結婚生活…

異国から嫁ぎ、英語を話せなかったというキャサリンの宮廷での孤独は相当なものでありました。そんなキャサリンは、当然国へ帰りたいと思うこともあったようですが、チャールズ2世との間に子どもがなく、世継ぎを出産できずにいることに負い目を感じていたこともあって思いとどまったといいます。

また、愛人たちの面倒見が良かったというチャールズ2世ですが、妻であるキャサリンは別格に扱ったといい、愛人たちがキャサリンに失礼な態度をとれば叱りつけるなど、彼なりに妻を大事にしたため、そんな夫の態度もキャサリンが踏みとどまった理由になったようです。

キャサリンが毎日お茶を飲んでいたのは、そんな寂しさやつらい毎日を乗り切るためだったともいわれており、しかも彼女はあえて愛人たちもお茶に招くことで、自らの威厳を保ったのだとか…

彼女の苦難は計り知れませんが、しかし、そんな習慣がきっかけとなってお茶を楽しむ贅沢な時間が上流階級の人々の間で羨望の的となり、宮廷にお茶が広まっていくことに!ポルトガルからイギリスにお茶をもたらした王妃として歴史に名を残したことで、彼女の苦難も少しは報われたと思いたいものですね!

 

戴冠を拒否!敬虔なカトリックを貫いたキャサリン

"陽気な王様"として好かれたチャールズ2世に比べると、英語が話せなかったことと、敬虔なカトリック教徒であったことから、国民からはあまり人気がなかったとされるキャサリン。

特に、熱心なカトッリック教徒であり続けた彼女は、プロテスタントのイングランド国教会の儀式には参列しないばかりか、自身の戴冠式ですら、イングランド国教会の儀式として行われることを知るとこれを断固拒否!

なんと、宗教上の理由から戴冠を拒否した王妃は英国史上キャサリンただ一人なのだとか…これを機に、彼女はイングランド国教会との確執にも苦しめられることとなりますが、たとえ異国から嫁ぎ、肩身の狭い思いをしていても、自らの信仰を曲げることのない意志の強い女性でもあったキャサリン。

夫のチャールズ2世も妻に無理強いはしなかったといいますから、そんな彼女の意志を尊重したのかもしれませんね。

ちなみに、キャサリンは、1685年、チャールズ2世が死去して未亡人となり、その後もしばらくは国内に残りましたが、1689年の名誉革命で即位するプロテスタントのウィリアム3世とメアリ2世との不和もあってようやくポルトガルへの帰国を決意。

1693年に祖国へ帰ってからは弟のペドロ2世の元で暮らし、一時期は彼の摂政も務めて第二の人生を送ったといいます。

24才で結婚し、その後20年以上に渡って苦難に負けず王妃であり続け、およそ30年ぶりの帰国を果たしたキャサリン…イギリスにお茶が渡った歴史の背景には、これほどの波乱万丈な生涯を送ったポルトガル王女キャサリン・オブ・ブラガンザの姿があったのでした。

 

参考資料

世界史の窓

Kirinホームページ

『NossaSenhora(ノッサセニョーラ)』

親愛なる紅茶さんたちへ Dear Tea Leaves

Wikipedia

-洋食器とゆかりの深い人物, 17世紀
-, ,

Copyright© ヨーロッパのブランド食器の世界 , 2018 AllRights Reserved.