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ヨーロッパのブランド食器の世界

洋食器とゆかりの深い人物 18世紀

カルロス3世とマリア・アマリア|ドイツから、イタリア、そしてスペインへ!政略結婚によって広まったマイセン磁器の技術

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ナポリ・シチリアの若き王カルロス3

ナポリ・シチリアの王として即位し、後に王位を息子に譲ってスペイン王となるカルロス3世(1716-1788)は、スペイン王フェリペ5世と、彼の2番目の妃でイタリア北部のパルマ公女エリザベッタ・ファルネーゼとの間に生まれます。

出典:Wikipedia(カルロス3世)

ちなみに、父フェリペ5世(1683-1746)といえば、「太陽王」と呼ばれフランスに絶対君主制を確立したフランス王ルイ14世(1638-1715)の孫にあたり、ルイ14世が彼をスペイン王の継承者としたことでスペイン継承戦争(1701-1714)を招くこととなった人物!

出典:Wikipedia(フェリペ5世)

16-17世紀にかけてのヨーロッパでの戦争の多くが、カトリック(新教)とプロテスタント(新教)の対立を原因とする宗教戦争であったのに対し、スペイン継承戦争は、スペイン・ハプスブルク家に世継ぎがいないことを口実として、その後釜を狙った神聖ローマ帝国(オーストリア・ハプスブルク家)とフランス(ブルボン朝)の争いに、アメリカ大陸での植民地をめぐるイギリスとフランスの対立(アン女王戦争)も絡んだ実質的な領土戦争、であることに特徴があります。

出典:Wikipedia(スペイン継承戦争)

このスペイン継承戦争では、フランスはブルボン家からスペイン王を出すことに成功したものの(ブルボン家は、現在のスペイン王家でもあります)、ルイ14世は各地での戦闘にはほぼ敗れ、それまでのヨーロッパでの軍事的優位を失い、この時、神聖ローマ帝国側についたイギリスとプロイセンはその後の隆盛のきっかけを掴みました。

父フェリペ5世には既に世継ぎとして先妻の子フェルナンド6世がいたため、この戦争の直後に生まれたカルロス3世は、母エリザベッタがイタリア北部のパルマ公国出身であったこともり、王子時代にはパルマ公を務めていました。

その後、ポーランド王位をめぐって、フランス・スペイン対神聖ローマ帝国・ロシアの陣営で争ったポーランド継承戦争(1733-1735)によってパルマ公位を手放し、代わりにナポリ王およびシチリア王カルロ5世・カルロ7世として即位することになります。

出典:Wikipedia(ポーランド継承戦争)

後の両シチリア王国の前身であるナポリとシチリアは、この頃、まだ別々の国でありましたが、彼はすでに"両シチリア国王"を自称していたといい、両シチリア王国の成立はこの時であったという見方もあるようです。

 

政敵から嫁いできた14才の花嫁!マリア・アマリア

そんなカルロス3世の元に1738年、異国からはるばる嫁いできたのが、先のポーランド継承戦争ではフランス・スペインと敵対する陣営であったザクセン選帝侯で、ポーランド国王となったアウグスト3の長女マリア・アマリア・フォン・ザクセン(スペイン名はマリア・アマリア・デ・サホニア)。

出典:Wikipedia(マリア・アマリア)

当時22才の若き王の元へやって来た花嫁はなんと14才!この年の差に加え、戦争で敵対した陣営同士が仲直りするための政略結婚、という二人でしたが、お互いに最初から好印象を抱いていたといい、その後、子宝にも恵まれて次々と子どもが生まれること13人!その内、成人した子どもだけでも7人という子だくさんで仲睦まじい夫婦となりました。

カルロス3世は24年間にも長きに渡ってナポリ及びシチリアを統治しましたが、夫妻にとってナポリでの暮らしは合っていたようで、特にマリア・アマリアは現地の気候や食べ物を大変気に入っていたのだとか!

ところが、1759年、当時スペイン王となっていた異母兄フェルナンド6世が後継者となる子どもを残さずに亡くなると、王位はカルロスのものとなり、ここでようやく"カルロス3"としてスペイン王に即位することに!

夫妻はスペイン・マドリードへと移ることになりますが、それから一年後、マリア・アマリアは結核により36才という若さで死去してしまいます。

この早すぎる死には、度重なる妊娠・出産が負担となったのか、彼女がヘビースモーカーであったということが関係するのか、スペインの風土が合わなかったのか…様々な説がささやかれるようですが、彼女はマドリードに移ってから、手紙に現地の気候が気に入らないことや、"ナポリの果物は本当に美味しかった"などとつづってナポリを恋しがっていたという逸話もあるようですから、やはりナポリを離れたことが彼女にとって大きなショックとなったのかもしれません

妻に先立たれてしまったカルロス3世は、彼女の死に対して、"結婚生活22年、(彼女は)初めて余の気に障ることをした"という言葉を残したという感動的な逸話もあり、それから28年後に亡くなるまで再婚することはありませんでした仲睦まじい夫婦だったというだけに、残されたカルロス3世も気の毒ですね。

 

アウグスト強王の孫娘は、ナポリで幻のカポディモンテ窯誕生に貢献

さて、そんな仲睦まじいカルロス3世夫妻には、夫婦仲の良さを物語るようなエピソードがもう一つあります。

はるばるナポリへと嫁いできたマリア・アマリアの出身地は、マイセン磁器で有名なザクセンであり、彼女はマイセン磁器の創始者であるかの有名なアウグスト強王の孫娘に当たります。

アウグスト強王は、当時大流行していた磁器の熱烈なコレクターであり、その謎に包まれていた製法を苦労して発見!その秘法は、外国に流出してしまわないよう、国家機密として厳重に管理していたようです。

ところが、彼の跡を継いだ息子であり、マリア・アマリアの父アウグスト3はというと、アウグスト強王ほど磁器に執着していたわけではなかったようで、マリア・アマリアが嫁ぐ際には、嫁入り道具としてマイセン磁器がそろえられ、それらは器の形に合うように作り込まれた特別な革製の容器に保護されて、王女と共にナポリへと渡ったのだそう!

こうした磁器の数々は製作に何年もかけられたものだといい、そんな優れたマイセン磁器を見た夫カルロス3世をも魅了!自身もマイセンのような磁器窯を持ちたいと思うようになります。

こうして、マリア・アマリアと彼女の祖国ザクセンの協力を得ることができ、十分な財力も備えていた彼は、1743年、ナポリ近郊のカポディモンテ宮殿内に念願の窯を開設!

ナポリでは、マイセンのような硬質磁器に欠かせない成分、カオリンを入手することができず、ここで作られた軟質磁器は、マイセンの磁器とは異なるものではありましたが、それでも次第に独自のスタイルを確立しながら発展!カルロス3世は、ナポリのポルティーチ宮殿に華麗な「磁器の間」まで作らせました。

出典:国立カポディモンテ美術館

この「磁器の間」は後に現在の国立カポディモンテ美術館に移されており、ここでは当時カポディモンテ窯で製作された食器類はもちろん、元はマリア・アマリアの化粧室であったというカポディモンテ焼きのタイルで飾られた小部屋も見られるのだとか!

 

カルロス3世夫妻はマドリードでブエン・レティーロ窯を創設

しかしながら、カポディモンテ窯が開かれてから16年後の1759年、カルロス3世夫妻はスペイン・マドリードへ移ることに自慢の窯を手放したくないカルロス3世は、設備から原料、職人に至るまで全てをマドリード郊外のブエン・レティーロへ移してしまいましたので、カポディモンテ窯自体は閉じられることとなります。

そのため、わずか16年という大変短いこの期間に製作された現存するカポディモンテ磁器は大変まれであり、高値で取引されることから贋作も多く出回ることに!"幻の窯"と呼ばれています。

ちなみに、こうして短命に終わってしまったカポディモンテ窯でしたが、カルロス3世の跡を継いでナポリ及びシチリアの王となり、後に統一された両シチリア王国の君主となった彼の三男フェルディナンド1世(1751-1825)は、これを再建したいと考えるように!

出典:Wikipedia(フェルディナンド1世)

彼の妻がウィーンの磁器とゆかりの深い女帝マリア・テレジアを母にもつマリア・カロリーナであったこともあって、夫妻はカポディモンテ窯が閉じられてから12年後に当たる1771年頃から新たに窯を開き、"ナポリ窯"として復活させることに成功しています。

出典:Wikipedia(マリア・カロリーナ)

この後ナポリ窯は、現在までイタリアの有名磁器ブランドとして愛されるリチャード・ジノリのルーツであるフィレンツェのドッチア窯と密接に関わり合いながら、新たな磁器の歴史を作っていくことに!短命に終わったカポディモンテ窯ですが、決して完全に消滅してしまたわけではなく、そのエッセンスは次世代へ受け継がれていったというわけなのです。

一方、スペイン王となったカルロス3世と共に、スペイン・マドリード郊外のブエン・レティーロへと引っ越した"元カポディモンテ窯"はというと、ここで新たな磁器工場としてスタート!カルロス3世はここでもアランフエス宮殿内に、以前ポルティーチ宮殿に作ったものと似た豪華な「磁器の間」を作らせました。

出典:Wikipedia(マドリード、アランフェス宮殿)

残念ながら、ブエン・レティーロの磁器工場も、1808年頃には閉鎖されることとなってしまいますが、この頃、マドリードは、スペイン統治をねらうナポレオンや市民の暴動といった政治的な混乱の渦中にありましたから、こうした事情も背景にあったようです。

しかしながら、統治先が代わっても磁器への熱意は変わらない!カルロス3世のこだわりは伝わってきますね!

 

熱心な都市開発でマドリードを再建!"市長王"カルロス3

誠実な善人という人柄で国民から慕われ、人気のある君主だったというカルロス3世。

趣味の狩猟に出掛ける際は、ごくわずかなお伴を連れ、その道中で身なりの良い人に出会えば帽子を取って挨拶し、たとえ相手が身分の低い人であっても軽く会釈したという彼の気さくな人柄がうかがえる逸話もあります。

そんな彼は文化や科学にも造詣が深く、当時、国力の低下に伴って荒廃していたというマドリードを中心に積極的な都市開発の政策を展開し、街の美化・整備に尽力!現在まで残る近代的な街並みを築いて、マドリードの文化的な発展に貢献した人物であったことでも知られ、"市長王"という異名で親しまれていたんだとか!

例えば、1599年に建てられたマドリードの名所アルカラ門は、カルロス3世の時代にこれを気に入らなかった彼によって取り壊され、質素な姿から現在の壮大な姿へと生まれ変わることに!

出典:depositphotos.com(マドリード、アルカラ門)

また、シベーレスの噴水やネプチューンの噴水はカルロス3世によってプラド通りの装飾として造られたものですし、先述したアランフエス宮殿も最終的にはカルロス3世が増築した姿で、庭園を含めて現在は世界遺産となっています。

出典:depositphotos.com(マドリード、シーベレスの噴水)

さらに、世界三大美術館に数えられることもあるプラド美術館のメインとなる建物も、元はカルロス3世によって自然科学に関する博物館として計画されたのが始まり!その後、彼の孫の世代で用途が変更され、歴代のスペイン王家のコレクションを収めた王室の美術館となり、さらに後に一般公開されて現在に至っています。

出典:depositphotos.com(マドリード、プラド美術館)

ちなみに、カルロス3世はナポリ統治時代にも、現在まで残る名所の建設に携わっており、フランスのヴェルサイユ宮殿を参考に建てられ、その規模も豪華さも18世紀にヨーロッパで建てられた宮殿で最大級といわれるカゼルタ宮殿もその一つ!

出典:depositphotos.com(ナポリ、カゼルタ宮殿)

カゼルタ宮殿は、カルロス3世により、海からの攻撃に備えるためといった理由からナポリの北に位置する内陸部に1752年より建設が開始されており、カルロス3世がこの建設を依頼した建築家より見せてもらった宮殿の模型を見ていたく感動したという逸話もあるほか、この計画には妃マリア・アマリアが大いに関わったともいわれています。

しかしながら、ようやく宮殿の一部が完成して住めるようになったのは、彼の後継者で三男フェルディナンド1世の時代になってからのこと残念ながらカルロス3世夫妻が完成したカゼルタ宮殿に住むことはなりませんでしたが、"ナポリ王国のヴェルサイユ"とも称されるその豪華絢爛な姿は、現在も世界遺産として、また映画のロケ地としても愛され続けています。

また、先述したカポディモンテ窯が開かれたカポディモンテ宮殿は、元々、広大なカポディモンテの丘に彼が趣味の狩猟を楽しむ際に使うための離宮を建てるという計画だったのだとか!

ところが、彼の母エリザベッタ・ファルネーゼが膨大な美術品のコレクションを相続していたため、彼女の"ファルネーゼ・コレクション"を保管・展示するための宮殿へと用途が変更されることとなり、現在はイタリア最大級のコレクションを誇る国立カポディモンテ美術館となっています。

出典:Wikipedia(エリザベッタ・ファルネーゼ)

スペイン王カルロス3世が展開した都市開発の優れた手腕は、ナポリ統治時代から培われたもの?であったのかもしれませんね!

ナポリからマドリードへ…王位だけでなく、磁器においても建築においても両土地でそれぞれ功績を残したカルロス3世と、彼の最愛のパートナーであり、彼と共に磁器の歴史を築いた妃マリア・アマリア。国境を跨いだ夫妻のように、ナポリマドリード、それぞれの名所を巡り、二人の足取りをたどってみたくなってしまいますね!

 

参考資料

国立カポディモンテ美術館

旅空

マイセン日本公式サイト

Wikipedia

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