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洋食器とゆかりの深い人物 18世紀

アウグスト2世|「マイセン」を誕生させ、ドレスデンを華麗なバロックの街並みに発展させた、精力旺盛な強健王

投稿日:2018年1月21日 更新日:

17世紀後半のドイツという時代背景

ザクセン選帝侯としてのフリードリヒ・アウグスト1世(Friedrich August I)と、ポーランド・リトアニア共和国の王としてのアウグスト2世(August II Mocny)という2つの顔をもち、"強健王"や"ザクセンのヘラクレス"などとも呼ばれるほど驚異的な怪力の持ち主としても有名なアウグスト強王(1670-1733)。

出典: Wikipedia (アウグスト2世)

その異名を証明するため?!しばしば蹄鉄をへし折って見せ、自慢していた!という驚きの逸話も残る彼は、1670年にザクセン選帝侯領の首都ドレスデンに生まれます(ちなみに、馬の蹄鉄って、こんなですよ。これをへし折るってどんな怪力なんでしょうか!)

出典: depositphotos.com (馬の蹄鉄)

17世紀後半のドイツといえば、1618年から長く続いた三十年戦争や、ペストの大流行による人口の減少など、暗い影が差していたザクセンでしたが、アウグスト強王が君主となってからは、華やかな繁栄の時を迎えることとなります。

ザクセンは現在のドイツの州の一つであり、ドレスデンは今もその州都ですが、現在のドイツが成立していくのはこれよりずっと後の話ですから、この頃はまだ300もの領邦国家の集まりといった状況で、そんな中、ドレスデンを中心とするザクセンは、北のブランデンブルク=プロイセンや南のバイエルンと並ぶ強国でありました。

 

政治よりも、ドレスデンの発展に力量を発揮!?

アウグスト強王は次男であったため、父の死後、後を引き継いだのは兄でしたが、その兄が急死してしまったため、急きょフリードリヒ・アウグスト1世としてザクセン選帝侯を継ぐこととなりました。さらに、それからまもなく、ロシアとオーストリアの支持を得た彼は、アウグスト2世としてポーランド・リトアニア共和国の王としても君臨することになります。

しかしながら、この背景には、ポーランド国王の選挙に出ることを目的としてカトリックに改宗するというアウグスト強王の強引な手段が人々を驚かせたことや、彼の野心による一連の動きによってザクセンの資金が賄賂となってポーランドへ消えたといわれたこともあり、人々からは「ポーランドへの投機」と呼ばれてあまり評判が良くなかったのだそう…

ちなみに、カトリックに改宗したからには、カトリックの教会や礼拝が必須ということで、宮殿の隣にはカトリックの教会が新たに立てられ、宮廷でもカトリックの音楽が奏でられるようになったといいますが、相変わらずプロテスタントの音楽も演奏されていたといい、両方の音楽が流れる妙な雰囲気だったとか…当時の人々の困惑ぶりが伝わってくるようなエピソードですよね。

その後も、ポーランドに絶対王政を確立しようとするも、シュラフタと呼ばれるポーランドの貴族階級の抵抗にあって失敗するなど、政治面ではなかなか手腕を発揮しきれなかったようです。

出典: Wikipedia (17世紀のシュラフタ)

その一方で、建築や美術品といった芸術や文化に高い関心を持っていたアウグスト強王は、ドレスデンを華やかな都として発展させ、ザクセンが最も繁栄した時代の有名な君主として高く評価されています。

アウグスト強王はまず、様々な生産活動を優遇する政策や道路の建設に力を入れますが、その結果として、ザクセンの産業や経済は著しく発展!さらに、建築を愛する強王は、歳入が増えるとそれを資金にしてドレスデンの町をルネッサンス様式からバロック様式に様変わりさせます。

優れた建築家を呼び寄せ、華麗なバロック様式のツヴィンガ―宮殿(Zwinger)、東洋風のピルニッツ宮殿(Pillnitz)といった美しい建造物を造営し、庭園や館から市民の住居まで幅広く街を改革していき、火災による被害を受けていたドレスデン旧市街は新しく再建。

出典: depositphotos.com (ツヴィンガー宮殿)

出典: depositphotos.com (ピルニッツ宮殿)

現在も「ドイツ・バロックの真珠」とうたわれる美しいドレスデンの街並みはこの頃にほぼ完成したのだとか!こうしてアウグスト強王はザクセンを強国へと押し上げていきました。

ちなみに、豪奢を好み、しばしば口実を見つけてはパーティを開いていたといわれるほどお祭り好きのアウグスト強王は、ヴェネツィア・スタイルの華やかな宮廷舞踏会を開くことでも有名だったようで、こうした華やかなパーティの様子はザクセンやポーランドの宮廷人によってヨーロッパ中に広まり、評判となっていたのだとか!

また、ヨーロッパ中から優れた芸術家や音楽家を招いていたというアウグスト強王は、フランスの"太陽王"ことルイ14世に憧れていたといい、1687年から2年ほどかけてフランスやイタリアを旅行したそうですから、外国から取り込んだエッセンスを加えることも忘れない?!華麗でおしゃれなセンスの持ち主だったと想像できますよね!

 

妻は孤独な生涯を送るも、アウグスト強王には子どもが300人以上!?

アウグスト強王は、1693年にブランデンブルク=バイロイト辺境伯の娘クリスティアーネ(Christiane Eberhardine von Brandenburg-Bayreuth、1671-1727)と結婚していますが、王妃がいながら生涯にわたって数多くの愛人を持ったことでも有名。

出典: Wikipedia (クリスティアーネ王妃)

また、彼女らとの間に生まれた多くの子どもたちの父親でもあったという彼ですが、その数はなんと365人以上だとか!さすがにアウグスト強王自身も全員は認知しきれなかったといわれています…彼が男らしい"強健王"などと呼ばれる由縁にはこういった事情も含まれているようです。

一方、妻クリスティアーネとの間にもうけた正当な彼の跡継ぎとなる子どもはたったの一人!しかも、結婚当初から愛人を持っていたというアウグスト強王ですから、この息子が生まれたわずか10日後には愛人もまた彼の子を出産した…という話も残っています。

そんな強王に政略結婚で嫁ぐこととなってしまった王妃クリスティアーネの苦労は想像するに難くありませんが、彼女の苦難は夫婦仲だけの問題ではなかったようです。

敬虔なプロテスタントであった彼女は、夫がポーランド国王になるという野心のためにカトリックに改宗するも、自身はこれに従うことを断固拒否し、夫の念願叶ったポーランド国王の戴冠式ですら参加しなかったばかりか、ポーランド王妃という立場でありながら、肝心のポーランドに行こうともせず、頑なな態度を生涯通し続けました。

クリスティアーネは、一人引きこもるようにドレスデン郊外の城で暮らし、その姿が見られたのはドレスデンの祝祭の日のみだったのだそう…そんな彼女の様子には当時、賛否両論あったといいますが、ひっそりと暮らす傍ら、親のない子どもたちを支援する活動に取り組んでいたとも伝えられていますから、強引な夫に屈することなく自身の宗教を守り抜き、自ら孤独を選んだ意志の強い女性であったともいえるのではないでしょうか。

いずれにしても夫にそれほど多くの愛人と子どもがいたら、ひっそりと一人引きこもって暮らしたくなる気持ちもわかりますよね…一方、夫アウグスト強王はというと不在の妻を気にかけることは全くなく、彼女が1727年に亡くなったときでさえ葬儀に参列しなかったのだとか…

 

数奇な運命をたどった愛人も!?

そんな強王にまつわる女性のうち、数奇な運命をたどった女性は王妃だけではありません…アウグスト強王の数多くの愛人たちの中でも特にドレスデンで有名な女性、コーゼル夫人ことアンナ・コンスタンシア(Anna Constantia von Brockdorff、1680-1765)もその一人です。

出典: Wikipedia (アンナ・コンスタンシア)

コーゼル夫人は、当時夫がいたにもかかわらず、その美しさと教養の高さでアウグスト強王に見初められ、離婚して彼の愛人となった後は、何不自由ない暮らしも権力も思うまま、彼との間に子どもも3人もうけました。ところがコーゼル夫人は、単に強王の愛人となるだけでなく、王妃亡き後は彼女を正式な妻とするという内容を含む秘密の契約を彼と交わしていたため、その契約をめぐって後に波乱に巻き込まれていくことに…

政治に関する意見が合わなくなるなど、次第に強王から疎まれるようになってしまった彼女は、その秘密の契約を盾に反発し、逃走まで図りますが捕らえられ、王の愛人から一転、33才で囚人の身となってしまいます。そして、彼女はこれより亡くなるまで、なんと50年近くの歳月を幽閉されたまま過ごすことになるのです。

華やかかつ派手なイメージの強いアウグスト強王ですが、王妃であれ愛人であれ彼のパートナーとなった女性は、程度の差こそあっても苦労したことでしょうね…

 

アウグスト強王のもと、マイセン磁器が誕生!

アウグスト強王の最も有名な功績の一つ、それはヨーロッパ磁器の最高峰と称され、世界的に高く評価されているマイセン磁器の誕生に貢献したことです。

このきっかけとなったのは、当時、ヨーロッパ中で大流行となっていた中国や日本といった東洋から来た磁器でした。東洋の純白で薄く、つややかな硬質磁器はこの頃、ヨーロッパでは大変貴重で珍しく、“白い黄金“とまで呼ばれて王侯貴族たちの間で瞬く間に大人気となり、買い集められた磁器は高級な装飾品として室内で飾られ楽しまれていたのです。

特に、日本の「伊万里」や「柿右衛門」は評判が高かったようで、ヨーロッパ各地の宮殿で飾られ愛されました。さらに、貴族や事業家たちは、こうした磁器の謎に包まれた製法をいち早く解明しようと競い合っていたのです。芸術を愛したアウグスト強王ももちろん例外ではありません!

こうした東洋の磁器に魅了され、熱烈なコレクターとなった彼は、その数なんと約数万点にも上ったといわれるヨーロッパ最大級の膨大なコレクションをたった一代で築き上げてしまいます。これらを手に入れたいあまり、彼は自身の兵士数百人をプロイセンの王が持つ東洋の磁器約150点と交換してもらったという逸話もあるほど!

アウグスト強王もまた、コレクションするだけでは飽き足らず、こうした磁器を何とかしてヨーロッパで模倣するべく、錬金術師のベトガーをドレスデン近郊のマイセンにあるアルブレヒト城に幽閉して磁器の製法を研究させ、その解明に乗り出します。

出典: depositphotos.com (アルブレヒト城)

ちなみに、ベトガーは金を作れるなどとうそぶいたことで、これを本気にしたプロイセン王に追われる身だったところを、アウグスト強王に助けられたのだとか…錬金術師といっても、依頼される無茶な要求をうまくかわすため、結局は陶工を名乗るようになったという逸話もあります。

そんなベトガーですが、1709年、ついに彼は誰も成しえなかった東洋の磁器の製法、すなわち白磁製法の解明に成功!翌1710年にはマイセンにヨーロッパ初の硬質磁器窯が誕生しました。

出典: マイセン公式ホームページ

現在まで300年以上にもわたり、世界中で愛され続けることとなるマイセン磁器の歴史はここから始まりました。こうしてアウグスト強王の東洋磁器への憧れから始まった挑戦はようやく実を結び、ヨーロッパでも東洋のものと同じ美しい磁器が作られるようになっていくわけです。

 

完成を見ることがなかった、幻の"日本宮"とは?

が、強王の熱意はこれだけに留まりません!

アウグスト強王は、特に日本の「柿右衛門」を気に入っていたとされ、これを含む膨大なコレクションはドレスデンのツヴィンガー城に集められていましたが、この自慢のコレクションにふさわしい日本風の建造物、その名も"日本宮"を建設しようと思いつきます。

さらに、この"日本宮"の大広間の装飾には、当時、西ヨーロッパの宮廷で珍重されていたという珍しい大型動物を集めた"メナージュリ"と呼ばれる動物園を、すべて磁器製の動物をかたどった装飾で再現するというユニークなアイディアまであり、マイセン窯の造形主任も務めた優れた彫刻家であったケンドラーにこれを任せました。

ところが、この壮大な計画の実現を前に強王が他界してしまい、他界する年まで収集された約2万5千点の東洋磁器の多くは、その後の戦乱などを経て多くが散逸してしまい、"日本宮"計画はあえなく幻と消えてしまったのでした…

出典: skd.museum (現在の日本宮殿は、「ドレスデン民族博物館」になっている)

 

アウグスト強王亡き後は息子が継承!磁器には新たなジャンルが誕生!?

1733年、ポーランドの首都ワルシャワで亡くなったアウグスト強王は、晩年は糖尿病に悩まされていたといい、肥満だったという彼の亡くなったときの体重は110キロを超えていたのだとか…彼の身長は176センチといわれ、当時の平均以上ではあるものの、"強健王"の異名のわりにはやや低い印象…これも考えると相当ふくよかな王様だった?ことがうかがえますね。

彼の遺体はポーランドに埋葬されますが、心臓だけはドレスデンに帰り、教会に安置されたのだとか…ザクセン選帝侯とポーランド国王という2つの顔を持つアウグスト強王らしい逸話です。

そして、彼亡き後は唯一の正当な継承者である一人息子がフリードリヒ・アウグスト2世として跡を継ぐこととなります。また、アウグスト強王は、自身の家系をポーランドの王家として確立することには失敗しているものの、息子はロシアの支援もあってアウグスト3世(August III Sas、1696-1763)として次期ポーランド国王に選出されています。

彼もまた父のように芸術を愛し、彼の場合は絵画の収集に熱中!ドレスデンに貴重な絵画のコレクションを築き上げたといいますし、現在まで残るドレスデンの主要な観光名所は、彼の治世中に完成したものも多いのだとか!息子アウグスト3世はかなり父の意志を受け継いだ君主となったようで、これにはアウグスト強王も安心したのではないでしょうか。

出典: Wikipedia (アウグスト3世)

ところで、幻の"日本宮"計画に携わった彫刻家のケンドラーは、強王より任された磁器製の動物を創り上げるにあたり、動物の細かい仕草などを研究したといいますが、こうした努力の末に誕生した優れた作品は、王の亡き後、埋もれてしまうことはなく、むしろその後、彼の才能はさらに開花!

こうした独自の作風を生かして、テーブルなどを飾る"フィギュリン"と呼ばれる小型の立像を生み出し、これが宮廷で人気となって王侯貴族たちの目を楽しませるようになります。こうして、東洋からヨーロッパに渡った磁器は、ケンドラーが確立した磁器彫刻によってフィギュリンというヨーロッパ独自の新しいジャンルとしても発展していくことになるのです。

出典: マイセン公式ホームページ (フィギュリン)

ちなみに、"フィギュア"という言葉は日本でもなじみがありますが、玩具の意味合いが強いために呼び方で区別されているだけで、これの前身はもちろんこのフィギュリンなんだそう!ケンドラーの才能を見込んだアウグスト強王は、マイセン磁器の誕生のみならず、磁器彫刻という新しい分野の誕生にも貢献したといえますね!

 

参考資料

ドイツの名窯マイセン 日本公式サイト

日本の世界一

ドレスデン情報ファイル

Wikipedia

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