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ヨーロッパのブランド食器の世界

洋食器にかかわる基礎知識 中世(5-15世紀)

皇帝と教皇|中世ヨーロッパの太陽と月

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ヨーロッパのブランド食器が生み出された「近世」の前の時代、いわゆるヨーロッパらしさの源流となった「中世」の時代をひもとく第2弾です。

東西で明暗が分かれた「皇帝」の立場

ローマ帝国が分裂したあとも、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、イスラム教徒のオスマン帝国に滅ぼされるまで約1,000年ほどを、引続き大帝国として隆盛を誇ります。

一方の、西ローマ帝国は476年に滅亡してしまったので皇帝も同時にいなくなってしまい、長い間、混乱状態にありましたが、800年にはフランク王国のカール大帝が西ローマ皇帝を名乗っています。

出典:Wikipedia(「カール大帝」アルブレヒト・デューラー作)

でも、フランク王国って、ローマ帝国滅亡の一因となったゲルマン民族の国ですよ。キリスト教に理解の深い国だったので、教皇が、カール大帝にローマ皇帝の冠を授けたとのことですが、いくらキリスト教保護のためとはいえ、若干、節操ない気もしますが。。。

とはいえ、このフランク王国も、カール大帝の死後は東・西・中に分割されたりして、西ローマ皇帝の座はイタリア王が兼務していたようですが、実態としては実権はほとんどなく皇帝位は空位のまま放置という状態だったようです。

その後、東フランク王のオットーがローマ教皇から皇帝位を受け、神聖ローマ帝国として継承するものの、教皇との争いからやっぱり空位だったり、有力諸侯からの選挙制で選ばれる時代を経て、ようやくハプスブルク家が世襲の皇帝となったのが15世紀くらいのこと。それでも、国そのものは分裂したまままとまらず、実際には有力諸侯が乱立する時代が長く続きました。

出典:Wikipedia(「オットー1世」ルーカス・クラナッハ作)

結局のところ、西ヨーロッパの歴史は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と同じように、西ローマ帝国を再建したい、という劣等感にさいなまれて、有力諸侯と教皇の思惑入り乱れた長い長い物語、といっても良さそうです。

ちなみに、皇帝の英語読みである「エンペラー」は、ローマのの元首の称号「インペラトル」から、またドイツ語読みの「カイザー」は「カエサル」から来ているあたりも、ヨーロッパ人のローマ帝国コンプレックスの根深さをうかがい知ることができて面白いところです。

 

教会も東西に分裂?

さて、国が分裂したら、教会も同じように分裂していきます。もともと、教会には、ローマ、コンスタンティノーブル(現イスタンブール)、エルサレム、アンティオキア(現シリア)、アレクサンドリア(現エジプト)という五つの重要拠点があったのですが、ローマ帝国の分裂により、ローマは西ローマ、コンスタンティノープルは東ローマの帝国領内となり、残る3つはイスラム教徒の勢力圏となってしまいました。

このうち、ローマを拠点とするキリスト教は「ローマ・カトリック教会」、コンスタンティノープルを拠点とするキリスト教は「東方教会」(のちに「ギリシア正教」「ロシア正教」へ更に分裂)と呼ばれます。

この両者が決定的に対立したのは、東ローマ側が8世紀に発した偶像禁止令です。要するに、聖職者の像や画像を作ることは禁止するという考え方です。

出典:美術の見方(「受胎告知」ローマ・サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂)

もともと、キリスト教でも偶像崇拝は禁止となっていたのですが、イスラム教ではこれがさらに徹底されており、東方教会での布教のためには禁止を強化する必要がある一方、ローマ=カトリック教会では、文字の読めないゲルマン人たちキリスト教を布教するためには、聖像・聖画像が有効、とする考え方の違いがありました。最終的には、1054年に、お互いの教会が破門し合い、仲違いのまま終わってしまいます。

ちなみに、ローマ教皇ってどんな人だったのでしょうか?なんでそんな影響力をもってるんでしょうか?

初代のローマ教皇は、もともとはイエス・キリストの12人の弟子のうち、一番弟子であったペテロです。このペテロという方、キリストが死んだ後も、ローマ帝国内にとどまり迫害されながらも布教につとめた立派な方で、現在までのローマ教皇はこの方の後継者として、カソリックの聖職者(=神父)の中では、最高位という立場になります。

出典:Wikipedia(「ペテロ」ピーテル・パウル・ルーベンス作)

また、これだけに止まらず、この時代の国王の位は神に授けられたもの、という考え方が一般的であったので、国王の戴冠式ではその国の最高位の聖職者として国王に王冠を授けたりもします。このため、中世でのローマ教皇は、キリストの一番弟子というだけでなく、むしろ「神の代理」くらいの偉い人の位置づけになっていきます。

 

西ヨーロッパでは、皇帝と教皇は激しく対立

この皇帝と教皇の関係ですが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、皇帝がキリストの代理者として国を治めていたので、政治だけでなく、聖職者の任免権に及ぶまで絶対的な権限をもっていました。

一方の西側では、ローマ教皇は、西ローマ帝国の皇帝という位を力のある国王に授けることでキリスト教を保護してもらい、国王の方は、ローマ教皇からのお墨付きをもらうことで、ある意味、お互いに持ちつ持たれつの関係を続けてました。

しかしながら、政治と宗教がからむと、関係がこじれるのは古今東西、同じことのようで、いつしか教会の聖職者の任免権(叙任権)をめぐって、皇帝と教皇が激しく対立するようになっていきます。キリスト教の影響力の大きい社会では、教会の聖職者が社会に与える影響が大かったので、皇帝も教皇も、教会の聖職者には自分の言うことをきく都合の良い人物をおいて、自分の影響下に置きたい、と考えていたのですね。

1077年には、ローマ王ハインリヒ4世が、教皇グレゴリウス7世に破門され、雪が降る中、3日間もの間、カノッサ城門前で裸足のまま断食と祈りを続け、教皇に赦しを乞うという事件が起きています(カノッサの屈辱)。このちょっとあと、1096年には、教皇の呼びかけによって、多くの諸侯が賛同して、十字軍の遠征もはじまっています。

出典:Wikipedia(カノッサ城)

そして、1215年には、教皇インノケンティウス3世からは、「教皇は太陽、皇帝は月」なんて自信満々な言葉も飛び出しています。この頃までは、教皇が圧倒的に優勢ですね。

出典:Wikipedia(インノケンティウス3世)

しかし、1303年、フランス王フィリップ4世は、フランス国内の教会へ勝手に税金をかけたことで、教皇ボニファティウス8世に破門されたものの、逆に教皇を捕えてアヴィニヨンに閉じ込めたことで、フランス国内の教会はフランス王に対して税金を払うようになりました(アヴィニヨン捕囚)。

出典:フランス観光開発機構(アヴィニヨン)

出典:Wikipedia(フィリップ4世)

この頃になると、皇帝が有利になっています。これ以降は、教会の権威は失墜し、国王は力を増して、「太陽王」と呼ばれたルイ14世の絶対王政に繋がっていきます。

ところで、この教皇と皇帝の関係は、どこかで見たことありませんか?

そうです、日本でも天皇と征夷大将軍は似たような関係でしたよね。天皇が力のある武士を選んで将軍の地位を授けることで保護を受ける一方で、将軍側もこれによって支配者としてのお墨付きをもらっています。ヨーロッパと日本、地理がすごく離れているのの、同じような時代に、同じようなことをやっている。なんだか、不思議な偶然ですよね。

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