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ヴィクトリア女王|大英帝国の繁栄期の象徴

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予想外?18才にしてイギリス女王に!

大英帝国の繁栄期の象徴的存在であり、その時代の政治、経済、文化や技術面においては「ヴィクトリア朝」と呼ばれることでも有名なヴィクトリア女王(1819-1901)。

出典:Wikipedia(「ヴィクトリア女王」 George Hayter作)

当時は政略結婚も多く、親は他国出身という君主も多い時代でしたが、この時代のイギリスは、ハノーヴァー選帝侯ゲオルクからジョージ1世として国王になった彼を筆頭に、母や配偶者はドイツ人という君主が続いており、ヴィクトリアも実はそんなひとりです。

ヴィクトリアは、ハノーヴァー朝第3代国王であったジョージ3世の息子ケント公エドワードと、その妻でドイツの血をひくヴィクトリアの一人娘として生まれ、家系図からいうとイギリスよりドイツの血のほうがはるかに濃い計算になるのだとか!

そんなヴィクトリアの王位継承権は、3人の伯父と父の次で5番目にあたり、伯父に子どもが生まれれば王座は無くなるという位置づけにあり、王位は決して近いものではありませんでした。しかし、父も伯父も亡くなってしまったため、1837年、ヴィクトリアはなんと18才という若さで即位することとなりました。

ちなみに、彼女が即位した時代、国内では全国的な不作も影響し、イギリス経済はどん底に あったといいますから、国民の若い女王への期待感は薄いものだったよう、、、彼女が大英帝国を黄金期へと導き、その後60年以上にもわたる治世が続くとは国民には知る由もなかったかもしれませんね。

 

最愛の夫アルバートとの結婚生活と死別後

ヴィクトリア女王といえば、結婚後20年以上にわたり愛し続けた夫アルバートも有名です。二人はいとこ同士で、結婚前にも会ったことがあったようですが、周囲の勧めで結婚話が持ち上がった時には、意外にもヴィクトリア本人は結婚に乗り気ではありませんでした。

しかし、いざ再会してみると、ヴィクトリアは美男のアルバートに惚れこみ、彼女からプロポーズすることに!二人は1840年、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿にて結婚式を挙げることになります。ちなみに、アルバートは身長167cmと低めでしたが、ヴィクトリアは145cmに満たないほど身長が低かったため、二人はとてもお似合いのカップルだったようです。

出典:Wikipedia(「アルバート公」Winterhalter作)

しかし、ドイツの血が濃いヴィクトリアの夫にはイギリス人が望ましいとされていたため、国民からはあまり歓迎されなかったのだとか。その後も、公務に追われるヴィクトリアとは裏腹に、外国人であるアルバートは周囲から疎まれて孤立しがちであったようですが、それでも女王の夫としてアルバートは妻を支え続けました。

二人は子どもに恵まれ、4人の息子と5人の娘が生まれますが、ヴィクトリアの妊娠・出産が続いていた時期は、特にアルバートの存在感が増していたようです。アルバートに政治の発言権はありませんでしたが、次第にヴィクトリアも彼を相談役として信頼するようになり、公私ともに助け合うようになります。

ヴィクトリアはドイツ人の彼を気遣い、夫婦の日常会話はドイツ語中心だったといいますし、クリスマスにはドイツの習慣のとおりにクリスマスツリーを飾って祝ったという逸話も残されています。

しかし、1861年、アルバートは、夫妻にとって問題児であったという長男(愛称バーティ)が学則違反をしたことで学校へ駆けつけた後、体調を崩したことをきっかけに、42歳という若さでこの世を去ってしまいます。彼は亡くなる前にヴィクトリアにドイツ語で「私の可愛い小さな奥さん」と声をかけたという逸話があります。

最愛の夫を亡くしたヴィクトリアの悲しみは相当なもので、彼の亡き後3年ほどは自身も死を希望する心境にさえなっていたといい、また、これ以降彼女は死ぬまで華やかな衣装を着ることはなく、黒い喪服に身をつつみ続けることになります。

出典:English-Heritage(ヴィクトリア女王)

1862年のロンドン万博は夫を思い出していたたまれないとして欠席。その後10年にわたって喪に服し続け、公務から遠ざかりました。いくら女王という強力な立場にあっても、苦楽を共にした最愛の人を無くした悲しみの前では、ヴィクトリアも一人の無防備な女性だったのですね、、、

 

強い意志で女王に君臨し続け「ヨーロッパの祖母」に

ヴィクトリアに公務ができない場合、通常であれば長男のバーティが代わりに行うのが普通ですが、ヴィクトリアはアルバートの心労の種であったバーティには何も任せられない、としてこれを認めませんでした。

一方、10年もの間、ひっそりと隠居生活を続けていたヴィクトリアに、最初は同情的であった国民も次第に批判的になっていきます。そんな中、長い間、悲しみに暮れていたヴィクトリアでしたが、寵愛していたディズレーリ首相を助けるうち、徐々に公務に復帰するようになっていきました。

1901年、ヴィクトリアは82歳でこの世を去り、長男のバーティがエドワード7世として王位を継ぐことになります。64年近くもの間、女王として君臨し続けた彼女の在位期間は、2015年にエリザベス2世が破るまでは史上最長の記録でありました。

出典:Wikipedia(「エドワード7世」ルーク・フィルデス作)

ちなみに、長男のバーティといえば、ヴィクトリア夫妻の悩みの種であったことで有名ですが、ヴィクトリアが亡くなる前、枕元ですすり泣くバーティに気付いたヴィクトリアが最後に手を広げるそぶりを見せ、「バーティ」とつぶやいたという逸話があります。

また、バーティことアルバート・エドワードは、国王となるとき、アルバートではなくエドワード7世と名乗ることにした理由について、「アルバートといえば誰もが父を思い出せるようにしたい」と述べたといいます。かつては両親を悩ませる問題児であったバーティでしたが、両親への敬意を忘れることは決してなかったのでしょう。ヴィクトリアも最期は安心して王座を譲ったのではないでしょうか。

ところで、ヴィクトリアとアルバートの子どもたちは、国をまたいでヨーロッパ各地の王室と血縁を深めて重要な地位を占めていたため、ヴィクトリアは晩年、「ヨーロッパの祖母」と呼ばれていました。

 

「ヴィクトリアン・ティー」を確立!

今でこそイギリスを代表する飲み物といえば紅茶ですが、それが定着したのはヴィクトリア女王の治世の頃でした。

ちょうどこの頃、第7代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセル夫人のアンナ・マリアの発案で、アフタヌーンティーの習慣が生まれますが、これを公式なおもてなしの儀式としたのはヴィクトリア女王です。

また、(1)お茶は正式な作法でいれること(2)テーブルセッティングは身分にふさわしく優雅に(3)ティーフーズは種類豊富で豪華に…という彼女のスタイルを確立し、「ヴィクトリアン・ティー」と呼ばれました。こうしたお茶の習慣は、その後、上流階級だけでなく一般にも広く浸透していくこととなります。

ちなみに、ヴィクトリア女王はウェディングドレスに白を選び、流行させたことでも知られています。結婚式に白いドレスは今ではすっかり定番ですが、当時は特に色の指定はなく、花嫁の好きな色を選んでいたのだそう。王族で白いウェディングドレスを着たのはヴィクトリアが初めてというわけではなかったものの、彼女が着るとたちまち上流階級の女性の間で流行したといいますから、彼女の洗練されたセンスがうかがえますよね!

出典:Wikipedia(ヴィクトリア女王とアルバート公の結婚式)

また、ヴィクトリア女王が服喪用のジュエリーとして身に着けたことでも知られる「黒玉」も貴族の女性の間で流行しました。黒玉とは「ジェット」とも呼ばれ、水中で長い年月をかけてできた木の化石である宝石の一種ですが、ヴィクトリアは彼女に謁見する女性にもこれを身に着けることを奨励したのだそう。

出典:Wikipedia(ジェットのブローチ)

ヴィクトリアが持っていた女王としての影響力は、国の政治から慣習、女性のファッションにいたるまで、じつに幅広かったことがうかがえますね!

 

参考資料

forTravel, Inc.

Coca-Cola(Japan) company.Limited

Wikipedia

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